『スワンの恋』の終わり

『スワンの恋』をディクテで約2ヶ月掛けて読み終えた。もう1週間前になるけれど、それはそれは濃密な64日間だった。

音声を聞いて書き取って自分なりに訳す作業の繰り返し。だいたい1分くらいの文章に1時間かけて取り組んだ。何しろ一行がべらぼうに長いので、文章がどこで終わるか分からない。地の文か会話文かの区別はある程度したらつくようになってきたのだが(朗読している俳優さんが声色を変えるので)、地の文にしてもそれが事実なのか暗喩なのか心の声かが判別できなくて、後で訳文を読んでえええーとなることの連続だった。要するに私にはまだまだハードルが高すぎたんだと思う。それでもとても面白かった。

『スワンの恋』は、好みでも何でもなかった女性が、ボッティチェリの絵に似ているというミーハーな理由で恋をし、振り回され、嫉妬に苦しめられ、 最後はこっぴどく振られて終わるスワンという男の物語。


印象に残ったシーン。

Il frôlait anxieusement tous ces obscurs comme si parmi les fantômes des morts, dans le royaume sombre, il eût cherché Eurydice.

スワンは不安な想いでこうした見分けのつかないすべての身体に触ってゆくのだが、まるで黄泉の国の死者の亡霊のなかをエウリュディケを探し求めているようだった。

(p.71)

どこかの店でお茶しているらしいオデットを探して、夕暮れの大通りのレストランを一軒一軒訪ね回るスワン。スワンがオルフェウス、オデットがエウュリディケにたとえられることで、黄泉の国で妻を求めて彷徨うオルフェウスのように、スワンにとってオデットが掛け替えのない存在になっていることが伝わってくる。仄暗い街中ですれ違う娼婦たちがスワンの目にはまるで亡霊のようにうつる。

Parmi l'obscurité de toute les fenêtres éteintes depuis longtemps dans la rue, il en vit une seule d'où débordait - entre les volets qui en pressaient la pulpe mystérieuse et dorée - la lumière qui remplissait la chambre et qui, tant d'autre soir, du plus loin qu'il l'a percevait en arrivant dans la rue, le réjouissait et lui annonçait : 《elle est là qui t'attend》et qui maintenant, le torturait en lui disant :《elle est là avec celui qu'elle attendait》.

通りの窓はどれもずいぶ前から灯りが消えていたが、ただひとつだけ ー鎧戸の隙間からその謎めいた黄金色の果肉を絞りだすようにー 灯りの漏れている窓が見えた。寝室を満たしているその光は、あれほど多くの夜、通りに着いたとき、どんなに遠くからでもそれが見えるとスワンを喜ばせ、「女はあそこでお前を待っているんだ」と知らせてくれたものだが、いまやスワンをさいなみ、「女はあそこでお待ちかねの男と一緒だ」と告げるのだった。

(p.98)

オデットが浮気相手を自宅に引き入れているのではないかと疑って彼女の部屋を覗きに来たスワン(変態だ!)。
「謎めいた黄金色の果肉を絞りだす」という表現が絵のように美しい。雄弁なその灯りはスワンを嫉妬に駆り立て苦しめていく。この光はその後に「貴重な写本の黄金色に彩色された表紙」にもたとえられる。大袈裟なようだけれど、光溢れる鎧戸も装飾された表紙も覗かずにいられない魅力的な扉だ。


スワンは自分の失恋について、理屈では分かっていてもいまいち現実味を持っていない。ところが終盤でヴァントゥイユのソナタ(幸せな時代にオデットと聴いて、ふたりの「恋の国歌」となっていた想い出の曲)を偶然耳にした途端、本当に自分の恋が終わったことをはっきり実感する。

失われた時を求めて』では、あまりにも有名な冒頭のマドレーヌのシーンをはじめ、芸術や感覚的なものによって揺さぶられたり衝撃を受ける人々の心の動きが繰り返し繰り返し登場し、丹念に描かれていく。
理屈では説明がつかない、言葉にしたら色褪せてしまう、でも誰もが知っている普遍的な感覚、それを敢えて描写することに挑んでいるからこそ一文がこんなにも長く、物語全体も気が遠くなるほどの長さなのかもしれない。

『スワンの恋』はこの果てしない物語全体を導いていく先達のような役割を果たしている。そして、まるでスワンの辿った道をなぞるように、本編の主人公もアルベルチーヌという女性に恋をして、同じように激しい嫉妬に苛まれる苦しい日々を過ごす。でも最後に辿り着くのがスワンとは正反対の場所なのがいい。

全編をフランス語で通読しようと思ったら、どんなに頑張っても3年はかかると思うので、抜粋でも『スワンの恋』がディクテできたのは大きい。同じようなかたちで『囚われの女』が出たら嬉しいなあ。