『修業論』 内田樹
フランス文学者にして合気道家の内田樹さんの本。頭と身体どちらもフルに鍛え続けてきた人の文章、とても面白かったです。この人のツイッターやブログは読んでいましたが著作は初めてでした。あとがきに
噛めば噛むほど味の出る「するめ」みたいな書物であることを願っておりますので、この先もお手元に置いていただいて、「あれって、これのことかな」と思うことがあったら、読み返してみてください。
とコメントされていますが、私にとってそういう本になると思います。実践の積み重ねが祈りや瞑想に通じているのは武道もヨガもきっと同じ。内田先生は手を変え品を変え、同じことを何度も懇切丁寧に説明してくださっています。読みながらあちこちにアンダーラインを引きたい気分だったのですが、本にそんなことはできない性分なのでやはりKindleを買おうと思います(Kindleでもそういうことができるらしい。ラインを引くのも消すのも自由。素敵!)。
私は小学校卒業まで強制的に剣道をやらされており、当時は早朝に小学校の校庭で父と姉と稽古をし(自宅の目の前が小学校だった)、週2回夕方バスに乗って道場に通う生活をしていました。今くらいの季節は叩き起こされて外へ出てみるとまだ暗くて星が瞬いており、冷たい風で耳がちぎれそうに痛かった。「クラスのみんなは寝てる時間なのになんで自分だけこんな辛い思いをしなきゃいけないんだ!」と心の中で叫びながらグラウンドを走っていました。
子どもでしたがこの本に書かれている武道家の身体感覚みたいなものは少し分かります。
著者は武道の目的を「無敵の探究」としたうえでこう説きます。
私たちの「最初のボタンのかけ違え」は、無傷の、完璧な状態にある私を、まずもって「標準的な私」と指定し、今ある私がそうではないこと(体調が不良であったり、臓器が不全であったり、気分が暗鬱であったりすること)を「敵による否定的な干渉の結果」として説明したことになる。
因果論的な思考が「敵」を作りだすのである。
「敵を作らない」とは、自分がどのような状態にあろうとも、それを「敵による否定的な干渉の結果」としてはとらえないということである。自分の現状を因果の語法では語らないということである。
この辺りは一演奏者としてもよくわかる、というかドキリとさせられます。演奏の出来不出来を何かの「せい」にするのも弱さのあらわれでしかない。
敵を敵としてとらえることが間違っているなら、あらゆる干渉を「これは敵だ」と思い込んでしまう「私」のほうをどうにかしなければならない。
そこで武道家が目指すべき境地として中島敦「名人伝」と、相撲好きにはおなじみの『荘子』の木鶏エピソードが引用されます。
敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときにこそ人は最強となる。最強の身体運用は「守るべき私」という観念を廃棄したときに初めて獲得される。
ではどのように「私」を捨てていくか。初めて「瞑想」が必要になってきます。
「キマイラ的・複素的身体の構成」「「額縁」装置の着脱訓練」という言葉の選び方がすごいですが通して読むとすんなり入ってきます。
幼児が自我を獲得する鏡像段階から学べとあり、息子は今まさに鏡像段階にある(1歳2ヶ月)ので、おかあさんは息子から大いに学びたいと思います。
ほかにハッとさせられたのはこの一文。
修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
どうとでもとれる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。
気をつけたいです。
「自分の能力を高める努力」と「競争相手の能力を引き下げる努力」では、後者の方がはるかに費用対効果が高い。