育児三昧

  数年前からヨガを始めました。10代のころからインド哲学ヒンドゥー教の神様に興味があり、ヨガにも憧れていたのですが、やりたいと思い始めたころにちょうどオウム真理教の一連の事件が起こり、心配した母から「ヨガなんて絶対許さない!」と釘を刺されたので簡単にあきらめました。当時はその程度の気持ちしかなかった、ということでしょう。

 生来太りやすい体質に加えておとなになってからは末端冷え性という悩みを抱えていた私は、「体質をどうにかせにゃ」という、10代のころとは違う目的でヨガに取り組むことになったのですがこれがとても良かった。

 ヨガの後はくたくたに疲れてよく眠れました。それだけでも人生かなり違います。循環が良くなるので冷え性もいくらか改善されたし、たくさん食べても以前のようには太らなくなりました。

 そんな感じでヨガが生活の一部になったころ、もともと興味を持っていたこともあり、哲学的な側面も学びたくなって、座学のクラスも受けるようになりました。ヨガ・スートラという経典を元に歴史や哲学を学びました。とても分かりやすいヨガの教科書のような本なので今でも時間を見つけては読んでいます。

インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)

インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)

 

 クラスの中で「100年ほど前までヨガの修行場に女性が立ち入ることは許されなかった。その理由のひとつは出産育児こそが女性の修行とされていたからである」という説明があり、子どものいなかった当時の私は「まあ修行場や霊山って昔から女人禁制と相場が決まってるもんねー」というくらいの感想しか持たなかったのですが、実際子どもを産んでみたら確かに修行以外の何ものでもなかったです。常にどこかしら痛かったり不調だったりしたことを考えると、教えの通り妊娠したその瞬間から修行は始まってるんですね。

 産んでから、特に泣いてばかりの低月齢のころは、可愛いより何より「この子を死なせないようにしないと!」という気持ちでいっぱいで他のことを考える余裕は全然ありませんでした。今振り返れば追い詰められていたんだなあ、そんな簡単に死にゃしないのに、と思いますが、初めての経験だからそれも分かりません。そんな毎日の中で、ふと実家のことを全然思い出していない自分に気付きました。

 生まれてから20年余りを父に疎まれながら暮らしてきたので、実家を出てからも、いやむしろ実家を出てからのほうが解放されたぶん、様々な記憶が蘇って情緒不安定になったり眠れなくなったりしました。病院に通って薬を飲んだこともありますがなかなか改善しませんでした。

 以前、ある90歳近いおばあさんが「子どもの頃、きょうだいの中で私だけ愛されなかった」と話してくれたことがありました。恋愛の傷は時間が解決してくれると言うけれど、肉親から受けた傷は時間ではどうすることもできないんだな、とそのとき痛感しました。私も音楽やヨガなど何かに集中しているときは良いのですが、それらをやめるとやっぱりつらい。苦しい。

 でも育児が始まったらそんなトラウマどころではなくなりました。24時間365日赤ん坊につきっきりで、雑念が入る余地がなくなりました。そのとき初めて「あ、いま私は三昧の状態なんだな」と知りました。三昧は「読書三昧」「映画三昧」というように、「○○漬け」の意味に使われますが、本来は仏語で「心を一点に集中した状態」のことです。ヨガでは「サマーディ」といって同じ意味で使われています。子どもについては今も次々と悩みは尽きませんが、父の件で苦しむことはほとんどなくなりました。「育児は修行」ってこういうことだったのかー!と遅まきながら1年経ってようやく分かってきたところです。遅いなあ。それでも身を以て実感することができてほんとに良かったな、と思う毎日です。